
手持ち資金わずかでその日の食事にも困る
永濱は1965年、大阪府堺市に生まれた。両親ともに教師の家庭で、夢は先生になって大好きなラグビーを教えること。高校卒業後は迷わず大学の教育学部へ進学する。
しかし、いよいよ夢を実現しようとした矢先、ある出来事が起きる。大学4年の教育実習でのことだ。身長184センチ、ラグビーで鍛えた屈強な体と明るい性格で、永濱は「ジャンボ鶴田先生」の愛称でたちまち生徒たちの人気者になった。「これなら教師としてやっていけそうだ」と自信を持った永濱だったが、実習最終日の前日、あることに衝撃を受ける。
「同じ大学から実習に来ていた理科教師志望の友人のクラスをのぞいたら、教室いっぱいに手製のプラネタリウムがつくられていたんです。星座の一つひとつに、その星座生まれの生徒の名前が書いてある。彼は僕が生徒とじゃれ合っている間、寝る間も惜しんでこれをつくっていたんだ。そう思うと、自分の教師への想いがとても安易な気がして、教壇に立つ勇気がなくなったんです」
自ら夢を断ち切った永濱の人生はここから"迷走"を始める。大学卒業後、工作機械の専門商社に入社するが、5年で退社。半導体の専門商社に転職するも再び5年で退職する。二つ目の会社の同僚と結婚した後も、新たな目標はなかなか見つからなかった。
99年には「認知症だった亡き祖父を十分に世話してあげられなかった」という理由から、両親を拝み倒して借りた300万円を元手に介護マネジメント用ソフトの開発会社を立ち上げた。
思いつきの事業は難航を極め、すぐさま資金繰りに行き詰まった。ソフト開発には想像以上に莫大な費用が必要な上、市町村ごとにカスタマイズしなければならない。さらに、介護の現場に余分な金はなく、製品は全く売れず、娘の誕生祝いにもらった祝儀を生活費の足しにするまで困窮したという。
電気工事の下働きの仕事を得て、全国行脚の旅へ
会社設立から一年後の2000年の大みそか、永濱の手元にはついに500円しかなくなった。どうにもならなくなった永濱は近所の大手飲食店チェーンを約束なしで訪問し、トイレ掃除を願い出る。
「一心不乱にトイレを掃除していると、さまざまな感情があふれ出て、これほど涙とは流れるものなのかと思うくらい泣けてきた」
どんなことをしても生きていかねばならない――。永濱は知人のつてで、電気工事の下働きという日雇いの仕事を得て、全国を巡る旅に出る。年明けて2001年2月のことだ。
ある大手家電量販店の仕事で、全国200店舗の安定器(蛍光灯器具内にある放電を安定させる装置)を交換する仕事だった。作業は夜から朝まで。昼間はサウナで寝ているか次の場所へ移動する。
だが、この過酷な仕事を通じて、永濱は後の人生を左右するある重大な発見をする。とにかくどの店舗も一様に電気設備のメンテナンスに頭を悩ませていたことだった。
「蛍光灯が故障して何日にもなるが、職人がなかなか直しに来ない」「一つの仕事をするのに、2日分の手間賃を払うのは納得いかない」といった不満を行く先々の店長が口にした。
困っていたのは店側だけではない。仕事を通じて知り合った工事業者の多くも、「最近はゼネコンからの仕事が一気に減った」「大手チェーンの店で仕事をしたいが、相手にしてもらえない」といった悩みを抱えていた。
ほとんどが零細業者で占められている全国の電気工事業者を組織化し、短期間・低コストで、大手チェーンに派遣する仕組みをつくれば、需要があるのではないか――。永濱が新たな目標を見つけた瞬間だった。


